「自分に心を開いて生きてみる」
そんなことを考えるようになってから、自分の中から湧いてくるものを、以前より少しそのまま見ていられるようになりました。
悲しいなら、悲しい。
腹が立つなら、腹が立つ。
嬉しいなら、嬉しい。
ただそれだけのことのようですが、やってみると、思っていたのとは少し違うことが起こりました。
自分に心を開いてみると、ときどき、今の自分には都合の悪い感情まで出てくるのです。
悲しいはずなのに、楽しい。
腹を立てているはずなのに、面白い。
もう関わりたくないと思っていたのに、力を貸したいと思う。
そんな自分が出てくると、少し慌てます。
「あれ? 今、私はこういう気持ちでいていいんだっけ?」
まるで、それまでの自分に戻るために、どうやって取り繕えばよかったのかを探すような、不思議な感じです。
そこで気づきました。
私はどうやら、その時の自分の立場に合わせて、感情を整列させようとしていたようなのです。
悲しい出来事があった私なら、悲しんでいる。
傷ついた私なら、腹を立てている。
そうしていないと、起きたことまでなかったことになってしまうような。
あのときの自分を忘れてしまうような。
そんな怖さもあったのかもしれません。
でも、楽しいと感じたからといって、悲しかったことが消えるわけではありません。
誰かに力を貸したいと思ったからといって、これからもずっと力を貸さなければならないわけでもありません。
今日の気持ちが、明日の私を決めるわけでもない。
その時の自分の立場に、感情を整列させなくていい。
そう思ったら、思いがけない自由が入ってきました。
私は以前、「見えない拒絶を癒やす」ということを考えていました。
見えない拒絶を癒やすことは、身体にも、自分にも、大切な人にも、もしかしたら世界にも、何か良い影響をもたらすのではないか。
そんなことを、昔のメモに書いていました。
当時の私は、拒絶を癒やすための何か具体的な方法があるのではないかと思っていました。
でも実際の私は、拒絶を克服する方法を編み出したわけではありませんでした。
この半年、いろいろなことがあって、脳みそを洗濯機の中に入れられたような気分でした。
ずいぶん乱暴な話です。
ただ、その中で私は、
自分と過ごす時間を拒絶しない
ということを、少しずつやってきたように思います。
悲しい自分も。
腹を立てている自分も。
嬉しい自分も。
そして、「今それを感じるのはちょっと都合が悪い」と思うような自分も。
なるべく追い出さずに、ただ見てみる。
そうしていたら、拒絶を克服したわけでもないのに、以前より少し自由になっていました。
悲しく可哀想な自分を、一生懸命握りしめていなくてもいい。
過去に起きたことを証明するために、今日の自分までそこに留めておかなくてもいい。
過去の私が感じたことは、そのまま大切にしておけばいい。
そして今日の私は、今日ここから湧いてくるものを感じていい。
そんなことなのかもしれません。
でも、まだよく分かりません。
「自分に心を開く」ということも、私はもっと違うものを想像していました。
自分の奥深くにある本当の気持ちを見つけて、それを理解していくようなものだと思っていたのかもしれません。
けれど実際には、
まだ知らない自分が出てくる余地を残すことなのかもしれない。
自分と過ごす時間を拒絶しないでいたら、この先、何が出てくるのか。
まだ私にも分かりません。
だから、今はまだ答えにしないで、
もう少し、この自分と一緒に過ごしてみようと思っています。
