私の中に住んでいた、小うるさい姑

「あー疲れた」

私は昔から、こんな言葉をよく口にする。

もう20年以上になると思う。

別に、何か大変な仕事をしたわけでもない。身体が疲れているという自覚もない。

それなのに、突然「あー疲れた」と口から出る。

そして、自分の声にハッとする。

「あれ? 私、疲れていたっけ?」

不思議なことに、その一言をきっかけに、頭が切り替わることも多い。

最近になって、この口癖が出るときの自分を、少し客観的に眺めるようになった。

すると、あることに気がついた。

「あー疲れた」の前には、たいてい「私ってダメだな」という思いがあるのだ。

例えば、家事の合間に手を水だけでさっと洗ったとき。

本当は石けんを使って、きちんと洗った方がいいのに。

私ってダメだな。

あるいは、キッチンのコンロを横目で見たとき。

本当は毎食後、きれいに拭いておけばいいのに。

実際には、一週間くらい拭いていないこともある。

「あー、拭かなきゃな」

と思いながら、まだ拭かない(笑)。

洗濯物の襟元だって、先に手洗いしておけば、もっときれいに仕上がるだろう。

そんなふうに、日常の小さなことを、私はいちいち採点していたらしい。

しかも、はっきり意識しているわけではない。

ぼんやりと、当たり前のように。

考えてみれば、私は「こうすればもっとよい」という情報を、たくさん持っている。

そして、いつの間にか、その最上級の行動を自分の基準にしていた。

そこまでできない自分は、どこか不十分。

そんなふうに思っていたのだろう。

まるで、自分の中に小うるさい姑を一人、飼っていたようなものだ。

「あら、まだコンロを拭いていないの?」

「襟元は先に洗った方がいいわよ」

「ちゃんとやれば、もっときれいになるのに」

しかも、この姑、言っていることが間違っていない。

だから厄介なのだ。

もちろん、コンロをきれいに拭き上げたあとの、あの清々しさは大好きだ。

きれいに整った暮らしは気持ちがいい。

でも、だからといって、いつも最上級の家事をしなければならないわけではない。

きれいにすると気持ちがいいことと、きれいにしていない自分がダメなことは、まったく別の話なのだ。

私は、その二つを長い間、混同していたのかもしれない。

自分がどのくらいで快適なのか。

今日は何を大切にしたいのか。

どこまでできれば、自分としては十分なのか。

そんな、自分自身の物差しを持たないまま、どこかで覚えた「正しい暮らし方」と自分を比べていた。

それでは、いつまでたっても合格できない。

そして、ふと口から漏れる。

「あー疲れた」

あれは、自分の中の小うるさい姑に付き合ってきた、私自身の小さなため息だったのかもしれない。

このことに気づいたのは、口癖を直そうとしたからではない。

ただ、いつもの自分を眺めていたら、見えてきたのだ。

20年以上も繰り返してきたことなのに、今になって気づくなんて、ちょっとおかしい。

でも、私にとっては大きな発見だった。

これからも、きれいなコンロを見れば気持ちがいいだろうし、汚れたコンロを見れば、拭かなきゃなと思うだろう。

それでいい。

自分の中の姑には、こう言っておこう。

「教えてくれてありがとう。でも、どこまでやるかは私が決めるね」

そして、今日もコンロを拭くかどうかは、私が決める。

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