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以前、このブログに「拒絶」について書いたことがあります。

私の中にずっとあった、

「私のままじゃダメなんだ」

というような感覚。

私はそれを「見えない拒絶」と呼んでいました。

でも、書きながらもずっと疑問でした。

この「拒絶」って、いったい何なんだろう?

誰かにはっきり「あなたはダメ」と言われた、というような
分かりやすいものではありません。

なのに、確かに私の中にある。

ずいぶん長いこと、
その正体がよく分からないまま、
私は「拒絶」という言葉を眺めてきました。

最近になって、
少し違うところからそれが見えてきた気がしています。

私は、人から拒絶されることを怖がっていただけではなく、

自分で自分を拒絶していた。

そして、もうひとつ。

ダメな自分と過ごす時間そのものを、拒絶していた。

落ち込んでいる私。
何もしたくない私。
うまくできない私。
人を羨んだり、拗ねたり、ふてくされたりしている私。

そんな自分が出てくると、
早く元気になろうとしたり、
理由を探したり、
なんとか立て直そうとしたり。

その時間を、早く終わらせたかった。

「こんな私と一緒にいるのは嫌だ」

そう思っていたのかもしれません。

少し前に、
夢うつつの中で自分を抱きしめたような感覚がありました。

そのとき気がついたのは、
私はずっと、自分を少し離れたところから見ていたということでした。

可哀想な自分。
頑張った自分。
惨めな自分。
ふてくされている自分。

そんなふうに名前をつけて、
「この人はいったいどんな人なのだろう」と
自分のことを見定めていた。

自分なのに、
ずいぶん他人行儀だったのです。

それをやめてみようと思いました。

いい自分も、嫌な自分も、
心地よい自分も、ちょっとゴツゴツした自分も、
とりあえずそのまま一緒にいる。

ダメな自分がいる時間も、
「早く終わらせなければならない時間」にしない。

そうしてみたとき、
私がずっと欲しかったものは
「安心」だったのかもしれないと思いました。

自分から拒絶されないこと。

何かができても、できなくても。
機嫌がよくても、悪くても。
美しくても、みっともなくても。

ここにいていい。

そんな場所に、
自分自身がなれたらいい。

そして、それは身体についても
同じなのではないかと思うようになりました。

身体を評価する。

ここが痛い。
ここが硬い。
姿勢が悪い。
筋力が足りない。
もっとこう動けた方がいい。

もちろん、身体を見る仕事をしていれば、
そういう観察は必要です。

でも、それとは別のところで、

私はこの身体を
「直すべきもの」としてばかり
見てはいなかっただろうか。

身体を拒絶せず、
身体の中に安心していられること。

私はそれを求めていたのだと思います。

ところが最近、
その先があることに気がつきました。

安心したかったのは、
安心するためだけではなかった。

安心して、この身体の中にいられるようになったら、

私は、この身体とどんなふうに生きていきたいのだろう。

そんな問いが出てきたのです。

そして今の私に浮かぶのは、

全身の細胞と、生きている喜びを分かち合いたい。

ということでした。

なんだか大げさです。

でも、足も、骨盤も、胴体も、首も、頭も。

身体のあちらこちらで、

「生きていてよかったね」

と、お隣さん同士で言い合っているような身体。

それぞれが無理に誰かに合わせるのではなく、
それぞれの場所で自分の役目を果たしながら、
積み木のように支え合っている身体。

そんな身体で生きてみたい。

拒絶をなくすことは、
ゴールではなかったのかもしれません。

ずっと、

「この拒絶って、何なんだろう?」

と考えてきました。

今の私には、
ひとつの答えが見え始めています。

拒絶しないということは、
自分を好きになることでも、
いつも自分を肯定することでもなくて、

どんな自分と過ごす時間も、追い出さないこと。

なのかもしれません。

そうして、ようやく安心して一緒にいられる。

そして安心して一緒にいられるようになったから、

「さて、私たち、これからどう生きようか」

と話し始めることができる。

私は今、
そんなところにいるような気がしています。

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