充実していなくても、いいじゃない

今朝は少し早く目が覚めたので、犬と散歩に出かけた。

駅へ向かう通勤途中の人たちと、何人もすれ違う。

その表情を眺めながら、なんとなく、仕事に向かうのが楽しそうには見えないな、と思った。

でも、実際のところはわからない。

これから楽しい仕事が待っている人もいるかもしれないし、気が重いまま出勤している人もいるかもしれない。

そして、ふと思った。

仮に気が重いまま仕事に向かっていたとしても、別にいいじゃない。

そのとき、自分の中にあった、ひとつの価値観に気がついた。

私はずっと、仕事というものに、ずいぶん大きな期待をしていたらしい。

仕事は、やりがいを持って、生き生きと、丁寧に取り組むもの。

接客は笑顔で。勉強は真顔で。

……なんだか笑ってしまう。

そんなふうに、仕事をするときの表情まで決めていたのかしら。

そして、その物差しを他人にも当てていた。

生き生きと働いていないように見える人を、心の中で批判することもあった。

もちろん、自分自身にも。

仕事にやりがいを感じられないときには、自分を責めたり、仕事の内容が自分に合っていないのかもしれないと考えたりしていた。

でも、仕事が楽しくない日があってもいい。

気が乗らなくても、淡々と仕事をすることはできる。

丁寧に仕事をすることと、いつも生き生きしていることは、別の話なのだ。

そう考えていたら、もうひとつ気がついた。

私は、仕事だけでなく、人生そのものにも「充実していること」を求めていたのかもしれない。

仕事にやりがいがなければ、家庭に。

家庭が充実していなければ、趣味や好きなことに。

どこかに夢中になれるものがあって、毎日を楽しんでいる。

そんな人を見て憧れたり、それを目指すことが、より良い生き方だと思っていた。

でも、それって、充実する場所を変えているだけではないか。

「充実していなければならない」という前提は、ずっとそのまま。

まるで、充実をたらい回しにしていたみたい。

なんだか可笑しい。

充実しているように見える誰かをお手本にしていると、自分が本当は何を感じているのか、わからなくなることもある。

仕事が楽しい日もあれば、そうでもない日もある。

好きなことに夢中になる日もあれば、何もしたくない日もある。

それでいいのだと思う。

これからは、暮らしの延長に仕事があるのかもしれない。

犬と散歩をして、お茶を飲んで、患者さんのところへ出かけて、帰ってきて、また暮らす。

仕事だけが特別な舞台でなくてもいい。

仕事に人生の充実を証明してもらわなくてもいい。

そして、家庭にも趣味にも、その役目を押しつけなくていい。

充実した一日だったかどうか、いちいち採点しなくてもいいのだ。

今朝はただ、犬と散歩をしていただけ。

それなのに、自分の中にずいぶん長く居座っていた決まりを、ひとつ見つけてしまった。

そんな朝だった。

目次