仕事がとてもうまくいっていた頃がありました。
自宅で鍼灸の仕事をして、自分の身体と技術があれば、自分でお金を稼ぐことができる。
必要としてくださる方がいて、仕事をすれば、それがちゃんと収入になる。
それはとても嬉しかったし、大きな充実感もありました。
けれど、あるとき、ふと思ったのです。
「こんなもんか」
仕事がうまくいっていないわけではありません。
生活に大きな不満があったわけでもありません。
むしろ、自分が望んでいたところまで、かなり来ていたはずでした。
なのに、思っていたほど幸せは増えていかなかった。
高校三年生の頃のことを、今になって思い出します。
私は器械体操をしていて、国体やインターハイに出場することはできましたが、目立った成績を残した選手ではありませんでした。
そんな頃、国体で優勝したことのある選手と雑談をしていて、その子がぽつりと言ったことがありました。
「優勝したからって、何になれるわけでもないし……」
私はとても驚きました。
国体で優勝する。
当時の私にとって、それはものすごく価値のあることでした。
そんな成績を残した人なら、喜びと誇らしさで心がいっぱいなのではないか。
単純に、そう思っていたのです。
もちろん、その言葉にどんな思いが込められていたのか、本当のところは分かりません。
それだけの力がある選手なら、もっと先の夢を見ていたのかもしれません。
ただ、私には到底届かなかった成績を残した人から、そんな言葉が出てくること自体が、とても不思議でした。
私は19歳くらいの頃から、
「生きていることそのものが嬉しくなるような何か」
を、ずっと探していた気がします。
そして、どこかで思っていたのでしょう。
何かを手に入れたら。
何かを成し遂げたら。
仕事がうまくいったら。
いつかそこへたどり着ける、と。
幸せとは、つかみ取るもの。
悲しみや苦しみは、できるだけ上手に避けるもの。
そして、いつか幸せにたどり着いたら、物語のエンディングのような大団円が、その先もずっと続いていく。
そんなふうに、私は幸せを想像していたのかもしれません。
だから、「これが私を幸せにしてくれるはず」と思うものが見つかると、そこへ向かって走ることができました。
「はず」。
今になって、この言葉が少し気になります。
本当は、まだ知らないのです。
やってみて、
私はどう感じるのか。
本当に嬉しいのか。
ここまでで十分なのか。
思っていたものとは違うのか。
自分に聞いてみなければ分からない。
でも私は、先に「はず」を置いて、そこへ向かうことが多かったように思います。
その力があったからこそ、できたこともたくさんありました。
ただ、自分が今どう感じているのかを確かめることは、少なかったのかもしれません。
最近、犬と一緒にカフェにいたとき、
「あ、私、すごく嬉しいんだ」
と感じたことがありました。
前回、「私の細胞が喜ぶもの」に書いたことです。
何かを成し遂げたわけではありません。
幸せをつかみ取ったわけでもない。
ただ、そこにいた私が、嬉しかった。
そして最近、もう一つ、反対のことも経験しました。
悲しんでいる自分のそばに、ただいてみました。
悲しい。
寂しい。
残念だった。
信じていたかった。
大切にしてほしかった。
これからどうするのかは、また別のこと。
今はただ、悲しんでいる自分を見ていられる。
一緒に悲しむことができる。
私にとっては、それも新しい経験でした。
私はずっと、
喜びや幸せはつかみ取るもの、
悲しみは上手に避けるもの、
と思っていたのかもしれません。
でも、そうではなかったのかもしれない。
嬉しいときには、嬉しい。
悲しいときには、悲しい。
すぐに何とかしなくてもいい。
今すぐこの状態を変えなくても、自分の存在まで危うくなるわけではない。
ここで止まっても、私は大丈夫。
そう考えると、
「生きていることそのものが嬉しい」
という、19歳の頃から探していたものの意味も、少し変わってきます。
四六時中、幸福感に満たされていることではない。
物語の最後のような大団円にたどり着き、その幸せがずっと続いていくことでもない。
嬉しい私も、
悲しい私も、
そのときそこにいる自分の気持ちを、自分が分かっていること。
自分に起きていることに、自分が心を閉ざさないこと。
「こんなもんか」と思ったとき、
私は、もっと大きな幸せを探さなくてはいけないのだと思っていたのかもしれません。
でも、その先にあったのは、もっと大きな何かではなく、
自分のところへ戻ってくることだったのかもしれない。
幸せをつかみ取りすぎない。
悲しみを避けすぎない。
すぐに答えを出そうとしすぎない。
自分が今、何を感じているのか。
そこに心を開いてみる。
19歳の頃から探していたものが、
ようやく少しだけ、見えてきたような気がしています。