先日の着物の集まりで、とても印象に残った方がいました。
ご自身のお仕事を持ちながら、毎日、着物で暮らしている方です。
お仕事で、お客様の工場へ伺うこともあるそうです。
はじめの頃は、着物で伺ったら、お客様に気を遣わせてしまうのではないか、と心配されていたそう。
けれど実際に着物で伺ってみると、思いのほか喜んでいただけた。
そんな経験を重ねるうちに、少しずつ心配がなくなっていったのだと話してくださいました。
そして、なくなっていったのは、着物についての垣根だけではなかったようです。
以前は、仕事中に家族のものをネットで注文することにさえ抵抗があった。
仕事中なのだから、仕事以外のことをしてはいけない。
でも、そんな垣根もだんだんなくなっていった。
逆に、家で自由に過ごしているときに、自然と仕事をしていることもある。
夜中に家で仕事をするなんて、拷問のように感じる人もいるでしょう。
でも、その方にとって、それが都合よく自然なら、それでいい。
仕事と家庭。
働く時間と自由な時間。
仕事の自分と、家にいる自分。
そういうものを世間にある区切りに合わせて分けるのではなく、
「全部、私がやること」
そんなふうに暮らすようになっていったそうです。
私はその感覚の自由さに、
「あっぱれ」
と思いました。
そして、とてもまぶしかった。
なぜ、こんなにまぶしいのだろう。
考えてみると、私はずっと、場面ごとに「ふさわしい何者か」になろうとしてきたような気がします。
妻なら、こうするもの。
仕事をしているなら、こうあるべき。
プロなら、こう振る舞うもの。
その場その場にある「正解」を探して、そこに自分を合わせようとしてきました。
私は昔から、正解に応えることは得意だったのだと思います。
そして何かがうまくいかないと、また外へ正解を探しに行く。
ダイエットでも、自己啓発でも。
成功している人が言っていること。
本に書いてあること。
長い間受け継がれてきたセオリー。
そういうものの中に、きっと正解があると思っていました。
だから、
「私はどうなんだろう」
「私には何が合うんだろう」
と、自分を見ることよりも先に、
「正しいやり方は何だろう」
と外へ探しに行っていたのだと思います。
でも、あの方は少し違って見えました。
「着物で伺ったら、お客様が気を遣うのではないか」
そんな心配があっても、自分を引っ込めてしまわずに、やってみる。
すると、思いがけず喜んでもらえた。
世界から返ってきたその答えを受け取って、また自分にとって自然な暮らし方を作っていく。
そこには、
自分から離れなくていい自由
があるように見えました。
考えてみれば、その自由は私にもあったはずなのです。
けれど私は、それをつかみに行かなかった。
外に正解があると信じていたから。
すでにある正解に自分を合わせるほうが、私には安全だったのだと思います。
自分の感覚から始めて、
「私はこうしたい」
と世界に差し出してみる。
そして、世界から返ってきたものを受け取りながら、
「じゃあ、どうしよう」
とまた考える。
「正解を探す」から、
「自分と世界との間で答えを作る」へ。
これは、私にとって、とても勇気の要ることです。
昔も、今も。
でも、自分に合う答えを作っていいのなら、
「できなかった」
「合わなかった」
そこで終わらなくていい。
じゃあ、私はどうしたらいい?
私には何が合う?
そうやって、また次を考えることができる。
それなら、諦めたり、嘆いたり、うまくできている人を僻んだりすることも、少しずつ必要なくなっていくのかもしれません。
自分をもっと「正しい私」に作り変えるのではなく、
今いる自分と相談しながら、
世界ともやり取りしながら、
自分に合う答えを作っていく。
あの方を見ていたら、
そんな世界を、私も少し見てみたいと思いました。
