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混乱が、痛みそのものだった

このところ、自分の中に、相反するような気持ちが同時にあることに気づくことがあります。

「こうしたい」と思う気持ちと、
「でも、したくない」と思う気持ち。

嬉しいのに、寂しい。

手放したいのに、大切でもある。

一人でいたいのに、誰かとつながっていたい。

少し前の私なら、こういう気持ちが同時にあることに、とても混乱したと思います。

どっちが本当なの?

私は、本当はどうしたいの?

一つが本当なら、もう一つは間違っているような気がしていました。

だから「本当の気持ち」を探して、一つに決めようとしていたのだと思います。

でも今日、ふと気づいたことがありました。

私は、混乱していることそのものが痛かったのではないか。

もちろん、悲しい出来事があれば悲しい。

傷つけば痛い。

怖いものは怖い。

でも、それとは別に、

自分の中で何が起きているのか分からない。

自分が何を感じているのか、うまくつかめない。

いくつもの気持ちが出てきて、どれを信じればいいのか分からない。

その「分からない」という状態の中にいること自体が、とても苦しかったのだと思います。

そこへ、私の中の「観客席」が口を出します。

「普通はこうするでしょう」

「こういうときは、こう考えるものでしょう」

「いつまでも迷っていないで、そろそろ決めたら?」

自分の声さえよく聞き取れないところへ、いろいろな「こうあるべき」が入ってくる。

ますます、自分が分からなくなります。

私は、その混乱から早く抜け出したかったのだと思います。

だから、何かを決めようとする。

怖い。

早く何とかしなくちゃ。

先が見えない。

だったら、進む方向を決めなくちゃ。

自分の気持ちが分からない。

だったら、「私はこうする」と決めてしまおう。

そうすれば、少なくとも一瞬、「決まっていない」という混乱からは抜けられます。

私はずっと、人生の目標を決めて、そこへ向かって進むことを得意としてきました。

だから心が混乱したときにも、同じ方法を使おうとしていたのかもしれません。

怖さを感じると、それを、

「早く答えを出せ」

という脅迫観念にすり替えていた。

けれど最近、少し違うことができるようになってきました。

相反する気持ちが出てきても、どちらかを消さない。

どちらが正しいのか、すぐには決めない。

「ああ、私は今、両方を感じているんだな」

と、そのまま置いておく。

すると、不思議なことが起こりました。

気持ちは二つあるままなのに、混乱しないのです。

答えが出たわけではありません。

どちらか一方に決めたわけでもありません。

何も解決していないのかもしれません。

それなのに、以前のような苦しさがない。

そこで初めて気づきました。

私は、矛盾する気持ちがあることそのものに苦しんでいたのではなく、
その気持ちを一つにしようとして、混乱していたのかもしれない。

そして今になって思います。
その混乱そのものが、私にとっては痛みだったのではないか。

以前、「オセロの角を、白に返す」という文章を書きました。

今は、その盤面を全部白くしなくてもいいと思っています。

白もある。

黒もある。

嬉しいもある。

寂しいもある。

近づきたいもある。

離れたいもある。

全部、同じ盤面に乗せておけばいい。

一つを置くために、もう一つを盤面の外へ追い出さなくていい。

そう思ったら、盤面が急に広くなりました。

私はずっと、「本当の気持ち」という一つの答えが、どこかにあると思っていました。

でも、本当の気持ちは、一つとは限らない。

いくつもあるものを、いくつもあるまま見ていていい。

それを知っただけで、ずいぶん静かになりました。

痛いものが、すべてなくなったわけではありません。

悲しいときは、やっぱり悲しい。

怖いときは、やっぱり怖い。

でも、そのたびに、

「こんなふうに感じる私はおかしい」

「どちらかに決めなくてはいけない」

「早く答えを出さなくてはいけない」

と、自分を混乱の中へ追い込まなくてもいい。

混乱がなくなるというのは、答えが出ることではなかった。

いくつもの気持ちを、同じ盤面に置いておけること。

「ああ、今の私には、これも、これもあるんだね」

と、自分がそれを見ていられること。

そんな方法があることを、私は今まで知りませんでした。

答えは、そのあとでいい。

もしかしたら、答えが出ないままの日があってもいい。

それでも私は、自分の隣にいながら、今日を暮らしていけるのだから。

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