私は、人から何かを指摘されることが苦手だ。
「クリーニングのタグがついているよ」
そんな些細なことでも、素直に受け取れないことがある。
相手は親切で教えてくれただけなのだろう。
それは分かっている。
それなのに、心の中に小さな黒い石が一つ増えたような感覚が残る。
「なんだか、また言われてしまった」
そんな気持ちになるのだ。
どうしてなのだろう。
ずっと不思議に思っていた。
最近になって、少しその理由が見えてきた。
私は、自分の不完全なところを、他人に見つけられることが嫌なのだと思う。
不完全であることを、自分自身でも認めたくない。
なぜ、そんなに嫌なのだろう。
考えているうちに、子どもの頃のことを思い出した。
私は三姉妹の長女だった。
「お姉ちゃんだから」
そんな言葉とともに、妹たちの行動まで自分の責任とされることがあった。
父が体調を崩して、長く仕事を休んでいた時期もあった。
家族にとって大変な時期だったのだと思う。
何か問題が起きると、何がいけなかったのか、誰が悪かったのか。
そんな、犯人捜しのような空気を感じていたのかもしれない。
もちろん、今となっては、当時のことを正確に説明できるわけではない。
ただ、私はいつの間にか、何かを咎められることに、とても敏感になっていたように思う。
ちゃんとしていなければならない。
間違えてはいけない。
誰かに責められるようなことをしてはいけない。
でも、どんなにちゃんとしていても、誰かに何かを言われるかもしれない。
何かが起きれば、責任を問われるかもしれない。
そう思って、いつもどこかで怯えていたのだろう。
なんだか、切ない。
私は社会をあまり信頼していなかったのかもしれない。
どこか斜めから眺めて、簡単には安心しない。
そうやって自分を守っていたのだろうか。
そして、もう一つ気づいたことがある。
私は、不完全なままでいると、どこまでも落ちていってしまうような怖さを持っていた。
ちゃんとしていなければ、堕落してしまう。
ただ生きているだけではダメなのだと。
「でも、ふと気づいた。」
不完全であることと、堕落することは、別のことなのだ。
私は、この二つを長い間、混同していたらしい。
人間なのだから、気づかないこともある。
間違えることも、できないこともある。
クリーニングのタグがついていたって、ただ、それだけのこと。
そこに人間としての価値を持ち込む必要などなかったのだ。
年齢を重ねて、社会には理不尽なこともあると分かってきた。
誰かに責められたからといって、必ずしも自分が悪いわけではない。
相手の言葉を、すべて自分への評価として受け取る必要もない。
それでも、長年身についた反応は、そう簡単には消えないだろう。
また、小さな黒い石が増えることもあると思う。
でも、そのときには思い出せるかもしれない。
ただ、気づかなかっただけ。
ただ、できなかっただけ。
それだけのことなのだ。
そもそも、不完全であることを、そんなに恐れる必要があったのだろうか。
ただ生きているだけではダメ。
いつの間にか身につけていた、その考え方。
もう、持ち続けなくてもいいのかもしれない。
不完全なままで、私はここにいていい。
そんなことを、今頃になって考えている。