「あ、私、すごく嬉しいんだ」
犬と一緒にカフェにいたとき、ふと、そう思いました。

カートに乗った犬は、いつもよりずっと私の目線に近いところにいます。
会話ができるわけでもない。
ただ、そこにいてくれる。
公園を歩いて、カフェで一緒に過ごす。
それだけのことが、私は思いのほか嬉しかったのです。
ところが私は、こういう自分の喜びを、ずいぶん恥ずかしがってきたようです。
犬を連れてカフェなんて、暇人みたい。
着物を着て喜んでいても、この程度の着物で?
この歳で、その色や柄?
誰かに言われるより先に、自分で言っておく。
そうすれば傷つかずに済むからでしょうか。
私の中にはいつも、半径20メートルくらいの人たちが座っている観客席がありました。
「私はこれが嬉しい」より、
「私はこれなら恥ずかしくない」。
ずいぶん長いこと、そちらで自分を満たそうとしていた気がします。
でも最近、着物を心地よく着ている自分が嬉しい。
犬とカフェにいる自分が嬉しい。
茶渋の取れた急須も、きれいな靴底も、掃除された部屋も好き。
北の丸公園の空気の中にいると嬉しい。
自分でせっせとお灸をして、身体が元気になるのも好き。

どれも少し面倒くさい。
それなのに、嬉しい。
面倒くさくても、その先に「嬉しい」があると、私は動けるらしい。
どうやら私は、喜びというにんじんが目の前にないと走らない馬だったらしい。
そして、にんじんは金塊でも宝石でもなかった。
もっと原始的な、
「好き」
「気持ちいい」
「嬉しい」
でした。
その最初の「嬉しい」には、ちゃんとエネルギーがある。
だから今は、喜んでいる自分を見つけたら、馬鹿にする代わりに、
「ああ、そんなに嬉しかったのね」
と言ってみたい。
自分の喜びに、自分が一緒に喜ぶ。
案外、それだけのことだったのかもしれません。