多様性

最近、オンラインである会に参加しています。

様々な率直な意見が聞けるので、とても面白いのです。

その会で、

SNSの発信で、

他者からの反応が気になるか?っていう問いかけがありました。

全く気にならない人

少し気になる人

大いに気になる人 など、

いろんな人がいることを知りました。

さらに、

発信について、

その場に則しているか

場を乱していないか

が、とても気になる旨の発言があって、

私もそうだわ!と同意しました。

私は発信だけでなくて、

コメントを入れるときも、

その場を乱していないか、

とても気を遣っていることを知りました。

←まるで他人事のようですが、前述の方の発言を受けて思いがけず引き出された、私の真実だったのです。

何でかな・・・

と考えていたら・・・

自分のことを見張っている自分に気がつきました。

場の空気を読めない私はダメ

場を乱してしまう私はダメ

人を傷つけてしまう私はダメ 

だから、見張っている。

引かれちゃったんじゃないか?

場違いだったんじゃないか?

自分の発言を、厳しくジャッジして、ダメだダメだ‼️って否定して、

自分のことを袋だたきにするような勢いで見張っているのです。

否定する癖、

反省という名の、自分責め

自分に全く優しくない

激しく落ち込んでいるくせに、強がって、

減点は許さない・・・ 

なぞの、厳しさ・・・

ただただ、発信をしたい私のことは認めない ・・・

100%でないと認めない

←そんなことはありえないのに。

これは、言い換えれば、

多様であることを認めない。

って言うことだって気がつきました。

多様性を認めることは、平和に繋がる。と、理解しています。

自分の中の平和を、私が壊していたのです!!

そして、

自分のことを見張って、袋だたきにする状況が勃発すると、

外からの攻撃が入ること、私の体調が悪くなることが、この短期間で起こりました。

やっぱり、そうだったんだ・・・

ちょうど、終戦記念日を挟んだ数日の間に、起こった出来事で、

私の(内面の)理解が進んで、外の世界との関係が薄霧が晴れるように解りました。

母方の祖父と、伯父二人が戦争で亡くなっています。

祖父と、年長の伯父は、戦場での戦死でした。

年少の伯父は、何とか帰ってくることが出来ましたが、

「自分だけ生き残ってしまった」という罪悪感に苦しみ、

生きながらえることが出来なかったと聞いています。

私の中の平和を進めることが、

世界平和に繋がることを信じます。