私の実験

突然ですが、


私の行動を、
お金のためにやっているんだって思われたくない! のは、なぜか?




って問いを立てた

事の顛末は、
Instagramでしゃべっています。

ですので、ここでは、要約だけ記録のために書いてみます。


この問いを立ててから、
自分の中を、いろんな角度から、
時間をかけて、掘ってみたのです。





そしたら・・・





私自身が、大人の行動は、すべてお金のための行動だと思っていることに気がついた。



極端なことを言えば、大人の行動は全て労働だと思っている。
やりたくてやっている、そんな大人はいないと。
やりたいことをやって生きてくなんて許されないとも。

そんな諦めの境地にいたんだな・・・




ここ数ヶ月、少しずつ自分とのコミュニケーションをすすめて、
やりたいことをすることを自分に許すことをはじめていた。
けれども、まだまだ、染みついた大人ぶった弱者マインドがあって。



わたしが、今まで、世の中を見てきた思い込みの通りに、
自分が見られることに耐えられない想い があるんだ・・・と、気がつきました。




お金のためにやっているんだって思われたくないのは、なぜか?
答えは、
私自身が、大人の行動は、すべてお金のための行動だと思っているから。
そして、きっと人はそう見るだろうっていう思い込みが拭えないから




私の見方によると、
行動には二つのパターンがあって、



一つは、労働  → あなたが居てくれて良かったっていう、役に立つ存在であることを証明する存在意義の為の行動 
労働の対価がお金だとも捕らえている。
そして、対価が得られる行動でないと意味がないとも考えている。
対価が得られる行動 =「役に立つ」とはじめから解っていることでないと行動しない。 →創造に結びつかない。

だから、
人の行動を見ても、あの人がやりたいことを自分にやらせてあげている行動だと捉えられないんだ。
全ての大人の行動は労働と認識しているから。
やりたいことをやって生きている大人はそうはいない。と考えている

そして、誰がやっても同じじゃないかと考える。



もう一つは、やりたい♥からやる、行動。(その行動そのものが好き)→やったら誰かの役にも立てる!だと、役に立てそうな場面で、行動そのものが好きだから、やりたいって自然になる。やってる私も好き! プロセスが大事だから、結果の予測がつかない!

身体がなければ、この世の体験は出来ない。
五感がなければ、体験も色あせたものになる。
やりたい行動をするために、身体というモノとの繋がりがより大切な意味を持ってくる。
→ここは、私にとって重要な気づきになるとおもう。

☆真面目に考えすぎて、やりたい♥だったのが、存在意義云々にすり替わってしまうことも、あるのよね。




私が私から目を離すと、やりたいから始まった行動も、”好き”って言う範囲を超えて行動してしまうのよね。これも労働
これを頑張れば、憧れのあの人みたいになれる。とか、
目標の為にどんな犠牲もいとわない人になれたのよね、私って。
多分これ、ハングリー精神ってやつだわよね。


私の”好き”なことを、”好き”の範囲でやる。

毎回私に聞いて、
やりたいことをやらせてみる。


この実験に、取り組んでいます。